ゆったりと流れる歴史を紡ぐ

  初瀬街道の宿場町「伊賀」
  司馬遼太郎を始め多くの文人が愛した地
  そんな当地には、多くの歴史建造物や古い町並みが残っています。
  折々にご紹介いたします。

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藤原千方伝説

伊賀市阿保に伝わる「藤原千方」
実在したかどうかは定かではないが・・・
当地、青山町には、藤原千方にまつわるさまざまな遺跡が残る。
不思議な力を持つ「千方」。
そして、彼は、妖術を操る四鬼を従えていたといわれる。
米つくりや産業・商業に詳しい・・・金鬼
土や水に詳しい・・・水鬼
文化や教育に詳しい・・・風鬼
さまざまな情報を操る・・・隠形鬼
それらは、伊賀や甲賀をルーツとする忍者の原型と考えられる。


さて、藤原千方が登場するのは、

「太平記」の説話

青山町高尾・霧生、一志郡白山町家城地方を中心に藤原千方伝説が古くから流布している。
この伝説の源流がどこにあるのかわからないが、最も早く文字にしたのは太平記である。
太平記の著者は不明であるが、後醍醐天皇即位の文保二年から後光厳天皇の貞治六年までの約五十年間の
南北朝の動乱の様子を書いた有名な書物である。
その中の「日本朝敵ノ事」の章で、朝敵の実例として平将門、平清盛、藤原千方などが登場する。
このくだりは、さまざまな粉飾をうけながら全国各地に流布されたようだ。
その他、江戸時代になり、「伊水温故」「三国地誌」「勢陽雑記」などにさまざまに描かれている。

青山町高尾の伝説地

三国岳は高尾・種生・霧生三村の界にそびえる山である。高峰山とも言う。土地の人は「サンゴク」と通称している。
いわゆる千方が窟はこの山の麓にある。高尾字中出の県道端に、「藤原千方窟」の道しるべが立っている。
約1キロの坂道を登ると鳥岡の小集落がある。
ここまでは、車で行くことが可能であるが、千方の窟はここからさらに5,600メートルの山道を歩かなくてはならない。
窟というのは柱状の大岩石が累々と重なった一郭である。
付近一帯は普通の山肌で杉や檜が植林されているのに、この一郭だけがうっそうとした巨木に覆われている。
この岩石塊のある光景は、神秘的であり一種の霊気を感じさせ、いかにも伝説の地にふさわしい雰囲気である。
「千方将軍 若宮明神」と彫った石祠があり、地元鳥岡の人たちは毎年4月29日に祭礼を行っている。
中央の岩面に彫られた歌は、昭和の初期のものである。横手にある桜井戸は天然の風穴である。



自然の神秘 「床並川」

千方伝説の群生地として興味あるのは、床並集落とここを流れる床並川である。
一斗の酒を注ぐことが出来る杯を洗ったという斗さが淵はこの川にある。
斜面になった岩盤の川床に滝がかかり、滝壷は広い深淵をなしている。
少し上流に鬼が淵がある。
四鬼にちなんでつけられた名であろう。










千方が首級を洗った血首井(ちこべい) 雄井(左岸)と雌井(右岸)

さらにさかのぼると名張川長瀬との境界に近い水源地帯である。
ここに血首の井戸がある。
川床の岩盤に井戸状の穴が二つあって、左岸にあるのは深さ1.2メートル、広さ3メートル四方
で男井といい、右岸に女井があって深さ9.3メートル、広さ2メートル四方である。
しかし、水流の多いときは水底にかくれて見ることが出来ない。
旱魃の時はこの井戸の水を汲み取り卵形の小石7個を取り出して雨を祈る。



千方信仰は脈々と続く・・・人々の心の中に

床並川のそって名張市長瀬への旧道がある。この沿道の逆柳の地名がある。今も小字名として生きている。
「三国地誌」は、「一本の柳あり。」と書いているから、当時は柳の木があったのだろう。
この近くに黄金塚というのがある。千方が財宝を埋めたところと伝えられている。
”朝敵”千方が、「将軍さん」としてまつられ、伝説も広く伝播しているのに、征伐使、紀友雄に
ついては何ら伝承されるところがない。わずかに紀友雄神社があるだけである。
種生字国見の津島神社の境内に紀友雄神社があった。
創建の由来はわからないし、千方伝説の伝承のない国見の人たちがなぜ紀友雄をまつったのかの動機もあきらかではない。
明治40年10月16日両社ともに種生神社に合祀された。


千方は、実在したのか?

平安時代の藤原氏の系図を探ると「尊卑分脈」に藤原秀郷ー千常ー千方がのっている。
秀郷は俵藤太ともいい、琵琶湖の三上山に住む大ムカデを退治したことで有名である。もともと関東の豪族である。
天慶3年平将門が関東に兵を挙げたときにその首級を上げた。子孫は、関東地方に勢力を張った。
もし伝説の千方を秀郷の孫の千方とすれば、村上天皇という代は時期的に合致する。
しかし、この実在する千方は叛乱を起こした事実はないし、当時伊賀・伊勢一志地方に叛乱が
起こったことは正史には見ることは出来ない。
実在人の千方は、関東にあって父祖の所領をついで豪族として関東地方支配に努めていたはずである。
紀友雄も紀氏の系図には出ていない。伝説の千方が秀郷の孫でないことは明らかではあるが、
推測するに伝説地のどこかで叛乱があり、その事件が千方と重なり合い伝説化されたのではないか・・・しかし実際は定かではない。
確かなことが一つある。
当時、青山町地方が、伊勢神宮参拝への往還路の宿場であり、多くの人々が往来したということである。
そんな背景の中で「藤原千方」は、人々の心の中で愛され、時代のヒーローとして確立したのではないか・・・
きれいな青山町の風景を眺めながらふとそう感じた。




「青山町史」 :青山町役場発行 より抜粋